積極的安楽死と消極的安楽死の法的評価

―患者の自己決定権と医師の治療提供義務の限界―

秋葉 悦子(富山大学)

 

T.積極的安楽死の合法化に対する疑問―患者の自己決定権の限界

  1.現在、いくつかの西洋諸国では、新たな法律の制定によって医師の積極的安楽死を一定の要件の下で許容する動きが見られる(米国オレゴン州「尊厳死法」(1994)、オランダ「嘱託に基づく生命の終焉と自殺幇助の審査法」(2001)、ベルギー「安楽死に関する法律」(2002)等)。わが国にはこのような立法の動きは見られないが、1995年に横浜地方裁判所で下された東海大学安楽死事件判決は、医師による積極的安楽死が合法とされる余地を認めている。

 以上のような動きは、いわゆる公民権運動によって1970年代以降認知されるようになった「患者の自己決定権」という新しい権利をさらに拡大する動きとして位置づけられる。しかし、この権利の限界を次第に認めるに至った多くの国では、医師による消極的安楽死を許容しつつ、積極的安楽死についてはこれと一線を画して、その違法性を維持する態度を示している。

 ここでは、積極的安楽死の問題点と消極的安楽死の合法化根拠について、オーストリアの刑法学者シュモラーの見解(Schmoller, K., Euthanasia and Assisted Suicide; Juridical Profiles, in: Correa, J.= Sgreccia, E.(ed)., The Dignity of the Dying Person, 2000, pp.172ff.)を参考に、検討を加える。

 

 2.まず、積極的安楽死の合法化については、以下のような問題点を指摘しうる。

 1)生命は、法秩序上、最高位を占める法益として位置づけられている。それは、財産、自由のような他の個人的法益とは異なり、法益主体がそれを放棄する意思を表明している場合でも法益性(要保護性)を失わないと考えられている。日本の刑法学においては一般に、同意殺および自殺関与を処罰する規定(刑法202)の存在がそれを証明すると説明されるのみで、生命がこのような特別な保護を必要とする根拠は必ずしも明確にされてこなかった。

 しかし、生命価値の絶対性は、「人間の尊厳」という国際法上の最高原理から導き出すことができる。すなわち、人間の尊厳の原則は、どの人間も無価値なものとして扱ってはならないと命ずる。それは、どの人間の生命にも同等の客観的、内在的価値を認めることにほかならない。したがって、たとえ法益主体自身がその主観的価値を否定する生命であっても、他の生命と同等の客観的価値を認めうる。国連憲章前文が「人格の尊厳と価値」とを並列に保障しているのも、この趣旨に理解しうる。

  2)オランダで医師の積極的安楽死を不可罰とする決定的な論拠として援用されたのは「緊急避難」の法理であった。東海大学安楽死事件判決も、積極的安楽死の合法化要件として、患者の自己決定権の他に緊急避難の法理を援用した。しかし日本の緊急避難の規定は、不正でない第三者の法益を侵害して、自己又は他者の優越利益が防御されることを要求している(刑法37条)。犠牲にされる第三者の利益も防御される優越利益も存在しない積極的安楽死について、緊急避難の法理を合法化要件として援用することには無理があると言わざるをえない。

 他方、オランダの緊急避難の規定は、わが国と異なり、「不可抗力によってやむを得ず犯罪を行った者を不可罰とする」規定にとどまっている(刑法40条)。これは、実質的には合法化する(すなわち違法性を阻却する)「緊急避難」というよりも、いわゆる「期待可能性」の不存在を理由に責任の阻却のみを認める規定のように見える。要するに、オランダの緊急避難の法理は、もともと積極的安楽死を合法化する根拠とはなりえないのである。オランダで成立した新法が、積極的安楽死を「合法化」するものではなく、単に「不可罰」とするにとどまっているのも、このためであると解される。

 3)自己決定権の行使は、一定の義務の負担を他者に要求するから「関係性」の脈絡で生ずる。そして、だれも、他者に不道徳な行為、不法な行為を強要する権利を持たない。結局、自己決定権を現実に行使しうるか否かは、「決定」の内容如何によるのである。

 医師の積極的安楽死を要求する声に対しては、患者を殺害する義務を反射的に担わされる医師の側から、たとえば「医職の本質の転覆」、「医師の任務の根本からの逆転」、「医師患者関係の破壊」、「医師の倫理的完全性の侵害」等々として、組織的かつ強硬な反対が表明された(世界医師会マドリッド宣言(1985)、スイス医学アカデミー(1995)、イタリア医師会(1995)、ドイツ連邦医師会(1998)、英国医師会ステートメント(2000)etc.)。こうして、医師の積極的安楽死を要求する患者の権利は、患者を殺害する医師の義務が否定された多くの欧州諸国では、事実上封殺されざるをえなかったのである。

 

U.消極的安楽死の合法化―医師の治療提供義務の限界

 1.他方、患者の治療選択権、治療同意権は、今日の医療実務においては、ほぼ絶対的なものとしてすでに確立している。「患者の意思こそ最高の法」という標語やインフォームドコンセントの法理は、その消息をよく示している。医師は患者の意思に反して治療する権限はない。かえってある場合には、患者の身体の完全性の侵害または専断的医療行為として処罰される可能性すらある。

 この事情は、治療の差し控えまたは中断が致死的な結果を招く場合であっても異ならない。末期患者の治療行為は通常の治療行為と特に区別されないのである。したがって、患者の意思に基づいて医師が延命措置を中断した場合は、それによって患者の死をもたらしたとしても、医師には治療提供義務(法的、倫理的)を認め得ない以上、そのような不作為がただちに違法行為を構成することはないと思われる。そしてそれは、患者の苦痛を終わらせるために、直接手を下して患者を殺害する積極的安楽死の場合とは、明確に区別されなければならない。

 

 2.他方、患者の意思(推定的意思も含む)が不明な場合は、医師の裁量による治療の中断が許容されてもよい場合がある。医師は、治療のコスト(人的、財政的)と患者にもたらされる利益とが客観的に釣合っているかを衡量して、合理的な決定を下しうる。 残りわずかな生命も、他の生命と同様に最後まで尊重されるべきことに疑いはない。しかし、あらゆる犠牲を払ってそれを長らえさせるまでの倫理的義務は認められず、同時に法的義務も排除されうる。資源(人的、財政的)には限りがあるからである。この視点から考えると、極端な負担を強いることのない基本的なケア(水分・栄養補給、セデーション)の中断は、一般に認められない。いわゆる“slow euthanasia は、必要な治療義務の懈怠による殺人罪を構成する可能性がある。逆に、不釣合いな治療行為が施された場合、攻撃的な治療(治療的暴力)や不当な実験的治療が行われない限り、それが直ちに患者の尊厳を侵すわけではない。

 

V.東海大学安楽死事件判決の問題点

  以上の考察の視点から眺めるとき、東海大学安楽死事件判決に対して以下のような問題点を指摘しうる。

 @判決は、患者の自己決定権を前面に掲げながら、患者の治療拒否権をきわめて限定的にしか―具体的には死期が迫ったときにしか―認めていない。これは、今日西欧諸国で一般に認められている、治療における患者の自己決定権の水準を満たさない。

 A 判決は、苦しみに満ちた残り少ない生命についてのみ積極的安楽死を認めている。それは結局、そのような生命についてのみ、他の生命と区別してその価値を否定するものにほかならず、法の基本原則に反する。

 B判決は、いわゆる「死ぬ権利」を明快に否定しながらも、緊急避難の法理の不当な援用により、事実上それを肯定している。それは、医倫理に反する殺害行為を医師に強いる。

 

【以上の報告に大幅に手を加えた拙稿「生命に対する罪と被害者の承諾―生命の尊重か自己決定権の尊重か」現代刑事法63号(2004年)42-46頁を併せてご参照いただければ幸いです。】